菩提樹

笑い飯の哲夫氏が言いました。

「お釈迦様が菩提樹の木の下で悟りを開かれたのは、おそらくこんな感覚じゃなかったのかなって?

自分が菩提樹の木の下で座禅を組んでいて、その木と一体化した感覚になった時・・・

自分は大地から栄養を貰い、それを自分の中を通して枝にそれを送り、葉となり実となる。

その実は鳥が啄ばみ、動物が食べて、その養分が彼らの細胞となる。

そうして動物の糞や死骸、自分から落ちた葉や実は大地へと落ち、それを昆虫やミミズが食べる。

昆虫やミミズもその養分で生きる。

その昆虫から出る糞や死骸は、また自分が取り込んで、葉とし実とする・・・

結局、自分の一部は誰かとなり、その誰かはまた自分へと戻って来る。

この世とは循環であって、何かが別物がある訳ではなく、全て自分だった!!

 

そう氣づいた事が”悟り”ではないか?」

 

先日、どこかに書いたが、SNSを見ていると犯罪まがいの事を投稿しているクッソみたいな奴を観て不快になった。

しかし、そのクソみたいな奴にも仕事があって、その職場ではソイツを必要としていてソイツのお陰で助かる人が居て。

僕が知らないところでソイツは世の役に立っていて、直接、僕には何の関わりもないけどソイツのやった仕事のお陰である人は元気になれ、その元気になった人がある商品を作り、その商品は組み合わさって大きな形となって、その大きな形のモノがあるお陰で別の商品が運ぶことが出来、その運ばれた商品は別の誰かを喜ばせ、その喜んだその人は一生懸命仕事して、その仕事のお陰で別の人が助かって、その助かった人も頑張ろうとして立ち上がった時に腰を痛めウチに来てるのかもしれない。。。

クソみたいな奴は、僕と直接関りがないので僕はソイツの事を何とでも言え、居なくなっても一ミリも困らない。

と思っているが、巡り巡って僕が困る事態になるのかもしれない。

 

この世には要らない人など居らず、この世に生まれた限りは滅茶苦茶遠くで繋がっている。

のかもしれない。

 

そう考えると、その人はお世話様で、この人もお陰様。

皆んな大事な人が居て、愛してくれる人が居る。

必要としてくれる人がいる。

 

あれが欲しい、これが欲しいと思うが、結局、その欲しいモノも元素記号でいれば炭素であり、水素であり、窒素であり、酸素である。

鉄やマグネシウム、亜鉛や銅などであってもそれらはこの身体の構成素だったりする。

形を変えた【自分】

 

色即是空と言うのは、色々なものに見えるがそれらは全て空(カラ)なのかもしれないし、何もない(空)だと思っているが全て自分が持っているのかもしれない(空即是色)

 

妬みや僻み、嫌悪や憎悪を抱く事もあるだろう。

でもそれは全て己へ向けている事と同じ。

誰よりも愛してあげるべき存在が、誰よりも下げている相手(己)なのかもしれない。

それならば、愛し慈しみ、愛おしさ優しさを以て対応していると、それらはこちらを大切に扱ってくれる様になる。

かもしれない。

 

この世は循環であり、陰と陽。

裏と言う漢字の中には【表】が存在する様に、全て表裏一体で存在している。

陰を嫌うのではなく、受け入れる。

裏を観ない様にするのではなく、知る。

全て繋がっていて、自分だと思えば見方が変わる。

かもしれない。

 

人類皆兄弟と言う言葉ある様に、相手を思いやり、許し、優しく接する事が出来れば見方が変わるだろう。

日本には【和を以て貴しとなす】と言う言葉ある様に、和と言う精神で相手を尊敬する気持ちを持てば自分が何より救われ、安心出来ると思う。

そんな人が増えれば増えるほど、世は良くなるだろう。

 

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