構成素
よく好きな人と出会った時に「運命の人」なんて表現をする事があるけど、その運命にたどり着くまでの経路には様々な人との出会いや出来事があったお陰な訳で。
運命の相手だけを切り取ってみると強烈な出会いな様に感じるけど、その背景にあった全ての人・出来事が何処かが欠けていたら出会わなかったし、仮に出会ったとしても相手から運命の人として見てもらえない可能性がある訳で。
出会う人と言うのは、良しも悪しきも自分に影響を与えてくれる。
悪しきの《悪》だけを受け取って、恨みつらみを思い続けると、次に出会った人の《良し》に目が向きにくい。
どうしても前者と比較して《悪》が無いか?を探してしまうから。
出会った人から何を受け取ったとしても、そこから何を学び・自分がどう成長したか?が次に繋がり、次に同じ失敗をしないようにするから運命の相手とはこちらを運命の相手にしてくれる訳で。
こちらが勝手に運命の人にしてもそれはただの独りよがりであり、ストーカーでしかない。
上手く行く事はない。
出会う人から何を学ぶか?
どう相手から言われたか?
傷付こうが落ち込もうが、そのまま居てはいけない。
相手にそう思わせた・感じさせたんだと氣づき、己を修正させていかないと次に繋がらない。
傷付ける人から離れた方が良い。
しかし、ただ何の学びもなく、相手のせいにして離れると、また同じ事は必ず起こる。
何故か?
それは外の世界とは写し鏡だから・・・
写し鏡とは、結局、その現象が起こるのは自分がそうさせていると言う事に氣づかないといけない訳で。
「自分がそうさせている」
と言う事は、相手が好きになってくれるのは自分が好きだからであり、相手がファンになってくれるのは自分がファンに対して愛される様に接しているからである。
世界は自分が創っている。
出会う人とは、全て、自分の成長させてくれる人。
起こる出来事とは、全て、自分を成長させてくれる事。
それらに何処で気付くかによって、大谷翔平選手の様に20代で修正が掛けれる人になれるし、40・50・60代・・・で気付き修正する人がいる訳で。
起こった出来事・出会った人とは、全て、今の自分を構成してくれている構成素。
思い出したくもない出来事や人が居た場合、その人を排除しようとしても起こった事・関わった事実は無くならない。
つまり、在り続ける。
故に、排除する事は構成素を排除しようとする事になり、自分を不完全にさせる。
不完全にさせるから、完全体になりたくてまた違う人・出来事を探す。
そうしてこの人にはネガティブ要素が無いか?
この事にネガティブ要素は無いか?を探してしまう様になる。
そうして見つけてしまった時に負の感情を思い出し、離れて行く事になる・・・
ネガティブ要素も自分の構成素。
そこからの学びの方が多い。
運命の人・運命の職業・運命の場所・・・
それらと出会いたいなら、全て出会った人・起こった事に感謝する事。
「あなたと出会えた事で、次にもっと良い出会いがあった✨」
不要な事は自分に降り注がない。
全ては成長させてくれる要素。
それら全てに感謝。
出会ってくれて、ありがとう。