我が邪魔をする
私達が『私』を認識出来る為には、『私』以外の世界を見つけ出さなければいけません。
『私』が『私』以外の世界を見つけ出したら、初めて『私』の存在を『私』が認められます。
そうやって『私』と『私以外』を分離して考えるので【比較】して物事を捉えます。
すると【優劣】に気がつき、その【優劣】は次第に【善悪】と言う考えも身につきます。
【善悪】で『私』と『私以外』を見た時に、『私が正しくて、相手が間違えてる』とするので、差別や争い、戦いが生まれます。
よく『我が強い』などの言葉がありますが、この『我』と言う言葉を“おのれ”と捉えると、そこに見えるのは“欲”となります。
そうして相手が欲を満たしているのを見た時、「おのれ〜!」となります。
『我』を“われ”とした時に、“わ”とは“和”であり“輪”であり、“れ”とは“0”であり、“礼”だと捉えると、和・輪とは繋がりであり、0、礼とは禊ぎ礼を持って接するである事に気づきます。
“われわれ”と言う言葉がある様に、『私一人』を指すのではなく、全体を意味し、それぞれには礼を持って接していれば全ては上手く循環し、全てが繋がり、全て清い世界となれると知れます。
『私』を外と分離して考え、“おのれ”として生きると『我が我が!!』と言う生き方となり、他人を蹴散らしてでも自分が助かろう、先に進もうとします。
この生き方では、誰も付いて来てくれない事がお分かり頂けますね。
一方、『私』を分離せずに“和を以って貴しとなす”と生きると世界は分離を起こさず、繋がって循環します。
鏡(カガミ)に映った私を見た時に、そこに映るのは当然、私です。
その私から我(ガ)を取ると、鏡(カガミ)に映るのは我(ガ)が取れ、神(カミ)のみが映り出されます。
神とは、私達一人一人の中に居ますが、我が邪魔していると、『私』を主張し、他人と比較し、分離していつまでたっても我が取れない『私』しか見えません。
周りも分離した“あなた”しか見えません。
その我を【和礼】【輪0】として映した時、全ては調和し全てを許せ、受け入れられ、差別も比較も戦いも生まれない世界が出来ます。
そんなあなたを相手が見た時、相手はあなたに神を見出します。
私を世間と分離して考えず、『私はあなた』と捉えれる生き方をすると、この世から、貧困も差別も争いも無くなるんだと思います。
ずっとステキな世の中になるんだと思います。