主張
ある方はこう言われた。
「なんでもかんでもポジティブ思考がイイとは思わなくて、ネガティブでも良いんじゃないかなって。
ネガティブを感じる癖があるのは、ネガティブを感じたくて生まれてきたんかなって。
結局、〇んで何も感じないなら、今、しっかりとネガティブを感じてあげて良いんじゃないかなって。」
正直、そう思う。
僕は、あの世と言うのはあり、しかしあるけどその世界はただ”居る(在る)”だけで、何も感じない。
”居る(在る)”世界は全て有り、好きも嫌いも苦手も得意も全て有って、でも感覚器を持たないから何も感じなくて・・・
その何も感じない、ただボ~っと眺めている自分が”居て(在る)”、何も感じない、何も思えない自分が”居て(在る)”、それが何年、何十年、何百年、何千年、何万年、何億年・・・もの長い年月の中で漂ってるどこかのタイミングで、「感じたいな」ってふと思った時、肉体を持って生れて来るんだろうと思っている。
結局は僕らの肉体は『袋』であって、魂とは『空気』であると思っている。
空気はあっても痛みを感じたり好きとか嫌いとか楽しいとか幸せなどを感じることなく、ただある。
そのただあるモノが袋に閉じ込めらた時、外の空気と袋の中の空気とは切り離されて、『袋』の一部として過ごす事になる。
これが命であり、【私】だと思っている【私】の存在なのだろう。
がしかし、〇んだ時、【私】は肉体(袋)から出て、全体(袋の外)へと混ざって行く。
混ざった世界は全てに漂い、全てに纏わりつく様にすべての存在のすぐ真横に居続ける(在り続ける)
でも結局、その世界は楽で幸せで楽しいのかもしれないが、何も感じないからつまんない世界だと思う。
何年、何億年、何千億年も漂っていると、さすがに飽きて、「感じたい」なぁって思って肉体を持つんだと思う。
それが生命であり、必ずしも来世が人間とは限らないと思う(周波数の違い)
よく地獄で火の海地獄を味わったり、針山地獄を味わったり、釜茹で地獄を味わう絵などがあるが、あれはやはり生前生きた周波数が(低い周波数)を閉じ込められた袋が昆虫であったり、ニワトリであったり、カニであったりして、それらを体験した事で、次、〇んだ時には周波数がちょっと変わってて、それを何度か繰り返すうちに高い周波数となり、その高い周波数の肉体(袋)として生まれてくるのが人間なんじゃないかと思っている。
そうして次に生まれた時には、「今度は楽しもう!」とか「ネガティブってどんな感じなんかな?」とか思って生まれて来ているのだろうから、そう思う考えがあっても当然だろう。
故に、色んな事を感じた方が良い。
色んな事を知った方が良い。
世界には色んな事があって、色んな考えがあって、色んな事を感じられる世界がある事を体感(思考)する為に肉体を持った。
表現は自由で、正解も間違いもない。
ただ、自分が何を選択するか?だけ。
他人がどう思おうと、そんな事はどうでも良くて、自分の考えを押し付ける事は出来ないし、押し付けるべきでもないなとは思う。
ただ、主張はあっても良いと思う。