主体と依存
言功法と言うのがあります。
これは言葉の力を使ったものです。
よく、言葉には言霊が宿ると言いますが、それとはちょっと異なります。
「~された」と、「~させた」とでは大違いです。
「された」は、他人によって引き起こされています。
一方、「させた」は自分から行っています。
前者は他人主導、後者は自己主導。
力バランスが異なってきます。
「された」となると、心は相手に奪われます。
一方、「させた」となると力関係で言えば自分の方が上になります。
この言葉の違いだけでパワーバランスは変わります。
子供にお菓子を食べられた
と
子供にお菓子を食べさせた
とでは、どうでしょう?パワーバランスが全く違う事が分かります。
食べられた事で湧く感情とは、どうでしょう?悔しい?腹立たしい?
食べさせた事で湧く感情とは、どうでしょう?見守り?喜び??
たった一文字変えるだけで、世界観は変わります。
世界観が変わると言うか、己の中に生まれるみなぎるパワーが全く異なります。
相手にパワーを奪われるか?
己のパワーを上げるか??
主体的な言葉を用いるか?
それとも依存的な言葉を用いるか??
他人から何かをされた事ばかりをイメージする言葉を用いるとエネルギーはそちらにドンドンと奪われ弱くなります。
逆に、己から他人に行う言葉に換えると、エネルギーは常に満たされ心も体も強くなって行きます。
騙されたと思って、日ごろから主体言語を用いてみて下さい。
いつも言う様に、この世は写し鏡です。
誰かにされたのではなく、己がこの世界を創っています。
「~された!あ~腹立つ!!」と言う世界は自分が常に誰かありきで自分に優しくしてくれる人を探し続けますが、それでも嫌な部分も同時に探し、見つけた瞬間から「こいつもか!!腹立つ!!」にしかなりません。
一方、「~させた。」と言う世界は自分ありきなので、常に自分の状態を探すようになり、悪い事が起こっても、なるほど、自分のせいか・・と氣づき自分の行動・発言を改める様になり、己を改善して行くので良い世界になって行きます。
この世は写し鏡です。
折角なら、良い世界を創りましょう。
他人に依存する事無く、主体的にして行きましょう。