存在する意味
僕達が生きる現実は、あらゆる存在の「行為」の積み重ねによって成ります。
人の言葉
動物の振る舞い
風や水の流れ・・・
すべてが現実に影響を与え、その影響がまた次の出来事を生み出していく。
まるで果てしない呼吸のように、作用と反作用が連なっているのです。
「”存在”が現実に作用する力」である。
行為は必ず何かを動かし、その揺らぎがまた別の変化を生みます。
そこに善悪や報酬といった人間的な解釈を差し込む必要はなく、ただ「力の流れ」として理解することができます。
注目すべきは、その行為の主体が「私」ではないということ。
僕達はしばしば「自分が選び、自分が動かす」と思い込みますが、本質的には「神的意志」によって生じていると言う。
存在の深層には、人間を超えた根源的な力が息づき、僕達を通じて世界に働きかけている。
ここに「自由」の本質が現れます。
自由とは、自我の欲望を満たすことではなく、神的意志との一致です。
「私」が中心に居座る限り、行為は歪み、自己都合に絡め取られます。
しかし、その中心から「私」がふっと消えたとき、行為は澄みきった流れとなり、そこに初めて純粋な創造が生まれる。
その瞬間、僕達の行為は「祈り」へと変わります。
何かを得ようとするためではなく、ただ存在そのものが自然に世界と響き合う。
働くこと、語ること、手を差し伸べること──
それらすべてが祈りの延長線となる。
そこに生まれる世界は、神と共に紡がれる創造の場です。
自由とは、孤立した「私」を超えて、神的な流れに自らを開くこと。
その気づきが、僕達の日常を静かに、しかし確実に変えていくのです。